タイトルの通り’’死ぬ勇気と生きる努力’’はどちらも同じ労力を消費すると私は思っている。
ここで勘違いしないでほしいのは、死ぬのがいけないとか、自死する人は努力してないとかそういうことを言っているわけではないし、自死念慮がある人に生きてれば良いことがあるとかそんな綺麗事が言いたいわけでもない。また、生きてる人は生きてる人で皆それぞれ努力をしているという前提で話をする。 私の言葉が見る人によっては曲解してしまうことがあるかもしれないという不安がないわけでもないが書いていこうと思う。
まず、前提として人間はこの世に生まれた瞬間から自分の知らないうちに努力を強いられる人生になる。 というより、生きている以上無意識に努力しているのだ。 ここで言う努力とは、テスト勉強をこのくらいやったとか、仕事でこのくらい成績を上げたとかそういう目に見えるもので定義しているわけではないということ。
そもそも人間は知らないうちにこの世に生を受けその瞬間から呼吸を始める。 よくわからんままに食事をし、体を動かせるようにトレーニングを積む。 意思疎通が取れるように無意識のうちに言葉という言語を喋るトレーニングを行い、文字という得体のしれない記号の読み書きを学習する。 よくわからないうちに学校という社会(集団組織)に放り込まれ、周りに合わせるという技術をみにつける羽目になる。では、ここまでの中で自分が意識的に望んでやってきたかというと、人間の本能というやつに無意識に努力させられているのだ。
学年が上がれば算数とか国語とかなんかやらなきゃいけないからやる勉強という努力が始まる。テストがあればそれを解くという努力をする。子供の頃になぜ、こんな式を解かないといけないのか?この勉強は将来使わないのになんの意味があるのか考えたことがある人はたくさんいるだろう。でも、その理由を細かく説明してくれる人はいないのだ。
それはそうだ、無意識の努力の積み重ねの中でそういうもんだからという意識を持つことになるからそもそも説明できる人なんてほとんどいないし、幼子がそこまで自分で考えることはないであろう。
歳を重ねるごとに複雑化する人間関係の対処法を学ぶ。これも努力である。 将来何になりたいとか、こういう大人になりたいとかそういうのを限られた情報の中で具体化させるのもまた努力。社会人になって今までの努力がそこで終わるわけではなく、今度は仕事に関しての努力が発生する。人間関係の努力も一度努力したら良いというものでもなく、相手が変わればまたその人に合わせた努力をするし、会社が変わったり、職種が変わればまた、その環境に合わせた努力が始まる。
大人になってから、こういうことこそ学校で教えてくれよ!と思う場面が出てくればそれを乗り越える努力も必要になるし、一人暮らしを始めたらまたいろんな努力が出てくる。 一難去ってはまた一難。人間死ぬまでが学習であり、努力の積み重ねなのだ。それはとても大きな労力を必要とするであろう。
中には私のように自死念慮が突如沸き起こり精神が不安定になっても死ぬ勇気を持ち合わせておらず、地味に細く長く苦しい生きる努力を選ぶ人間もいる。
ここまで話してきて、それと死ぬ勇気とどんな関係があるのか?何が一緒なのか?疑問に思う人もいれば簡単に言うな!と謎の怒りに襲われる人もいるかもしれない。
では、ここからは死ぬ勇気について話していこうと思う。 それは単純に、自ら死を選ぶという不安感や恐怖を抱きつつ実行する時点で勇気が必要だからだ。 死ぬのが全く怖くない人なんていないと思うし、多少の不安や寂しさは誰でも持っているだろう。でもそれを抱えた状態でそれらの感情のハードルを飛び越えてまで遂行する人は今後細く長く努力するのに使う労力を一気に放出するのと同等と私は考えた。
それくらい勇気というのは重いのだ。 悪く言うなれば細く長く苦しむのが生きるうえでの努力であり、それをその一瞬にぎゅぎゅっと詰め込み一気に自分に叩きつけることが死ぬ勇気というのだろうか。 書いていて思うのはこれだと多大なる誤解を生みそうな気もするが、、、、、うまく言葉にできなくて申し訳ない。
生きてても偉いし、自ら旅立つことを選んでもだめではないと思う。 生きろということを言うのはとても簡単である。だが、自ら旅立つことを選んだ人はその一瞬に今後の人生を詰め込んだ結果なのだろう。 そういう人に綺麗事を言ってもすべての退路を絶たれた気になるだろう。その人にとってはその瞬間がそれまでの出来事が、思いが全てなのだろうから。
しかし、何度もいうが消して自ら旅立つ人を応援してるわけでもない。あくまでその人の人生だ。人は人が変わりたいときに支えることはできるが、その人本人を変える力は持ち合わせていない。 生きるも死ぬもその人の自由であり権利である。 ただ、どちらも同じくらいに労力を消費するんだろうなと思ったという話だ。 努力と勇気という言葉を使うから語弊を生むのだろうか? だが、しかし、私からしたら生きてる人はみんな努力家だなと思うし、自ら旅立つことを選択した人はそれぞれ思いがるんだろうなと思いながらも勇気があるなとも思う。これは完全に個人の感想だ。 世の中には死にたいと思っても死ねず生きる努力をし続ける人も多いだろうし、そんな素振りもないのにある日突然勇気をもって旅立つ人もいるだろう。
生と死に関しては簡単に語りきれない部分がたくさんある。各々別の人間だし、捉え方、考え方も人それぞれだ。何ならこの文章を読んで怒りを覚える人もいれば、悲しくなる人もいるだろうし、ダチョウの頭がおかしいと思う人もいれば、その感覚何となく分かるという人もいるだろうし、共感するという人もいるだろう。 それもまた人それぞれの解釈であり感覚であるがゆえにダチョウがその思考を操ることは不可能なのである。 ダチョウは言葉の選び方がとても下手なのだが、どんなに弁明しようとわかり合えない人は必ず出てくる。 そういうもんだ。
ただ一つ、ダチョウがそれは考え直してみて?と思う人は誰かのために、誰かのせいで自ら旅立つことを選ぶ人だ。 理由は、簡単であなた一人が苦しみ、悲しいんで旅立っても相手は無傷だからだ。 何も無いように生活し、成長して、幸せになるからだ。あなたの勇気は無下にされ時が経つにつれ皆に忘れられ、同じような人がまた出てくるのだ。 そんなの悔しいじゃないか。自分だけ苦しんで未来を全部背をって今はまだ持つには早い勇気をもって旅立ったのに何もなかったように世界は回るなんて悔しすぎるじゃないか。
今もし、生きるのに疲れた人がいたのなら未来は考えなくて良いから誰のために、なんのために早すぎる勇気を持って旅立とうとしているのかだけ考えてみてほしい。もしそこで自分以外の誰かの顔が浮かんだなら、その人が幸せそうに過ごしてる未来を一度思い浮かべてみて。 凄く悔しいから。そんなやつより幸せに’’なりたかった’’と思ったなら一旦その勇気を足元に置いてみてほしいよ。’’なりたかった’’てことはまだ自分の未来を諦めてない自分が少しでもいるという証拠だと思うから。
人間はみんな誰かに迷惑をかけて生きている。死ぬときも勇気とは裏腹に生きているときと同じように迷惑はかけてしまう。誰にも迷惑をかけずに生きることも死ぬこともできない。 なら、生きて迷惑をかけて、自分の心にゆとりができた時に誰かの迷惑を受け止めてあげれたらそれで良いのだ。
まぁ、これを見てどう思うかも人それぞれ。 すべて選ぶのは自分。後悔した時に誰かのせいにしなくて良いように自分の選択は自分自身でするのが私のモットー。